あなたのいない風景│リヴァエレ
そのひとは、ガラス越しにキスをするのが好きみたいだった。
朝になると決まって、首元にスカーフを巻いて形を整える。顔を洗い、髪を整え、歯を磨く。切れ長な瞳、引き結ばれた唇。すこしだけ、不機嫌そうな顔。
「リヴァイ〜」
声がする。呼ばれたそのひとは、さらに不快そうに眉根を寄せた。
「急かすんじゃねぇ、クソメガネが」
身支度を整えたあのひとは、いつも決まって顔を近づけてくる。ガラス越しだから、もちろんオレに触れることは出来ない。それでも、軽く唇を寄せて、キスをしてくれる。
触れられないとわかっているのに、オレは指先を伸ばす。指先をついと撫でるのは温かみひとつない冷たいガラス。それでも愛おしげに触れる。あのひとの唇が触れた向こう側の温かみを想像する。
「どうだ、わかるか? あそこに足りないものを」
不意に落ちる声。両のてのひらをひたりとガラスにあてたまま、オレは声の主をみあげる。
「お前は見つけねばならない。知らねばならない。そして、最終的に選択せねばならんのだ。残された時間は少ない」
刮目して見るがいい。そう低く言う男を、オレは知っている。
「―教官」
オレの隣に立つのは、訓練兵団時の教官、キースだ。ヒゲをたたえ、頭は丸刈り、そしてくすんだ目の下の隈が特徴的な男。
「―オレ、どうして」
茫然と呟く。部屋の中にいた。教官の二人きり。黒板がひとつに机がひとつしか置かれていない殺風景なその部屋が、よく座学講義に使われていた教室だと気づく。
教室には扉がふたつ。どちらも土気色をしていて、ひどく重そうな両開の扉だ。それが隣合わせにふたつ、教室の後方にたたずんでいる。
教室の壁の一方は、ガラス張りになっていた。ガラスの向こうに、調査兵団のメンバーがいる。場所はあの古城。調査兵団に入団直後、滞在先として選ばれた旧調査兵団本部の一室。見覚えのある場所だったが、どこだったか詳しくは思い出せない。
手をのばせばあの部屋に行けそうだと思った。でも行けない。透明なガラスという名の壁が邪魔している。
「オレ、どうして、ここに」
教官は少し間を置いて、ぽつりと呟く。
「言ったろう。実験だよ」
「実験? なんのですか?」
実験ならたくさん受けてきた。オレは珍しい存在らしい。好奇の眼差しにさらされながら、いろんなことをされた。主に身体に。
だが今、この場で実験と言われてもピンとこなかった。このガラス張りの風景を観察することだけが、何の実験になるというのだろう。
「意味がわかりま―」
言葉は遮られる。
「いまにわかる。お前ならば、な」
「いまに? わかる?」
わからない。オレは小さく息ひとつ呑んだ。キースの視線の先をなぞれば、あのひとがいる。
(―兵長)
ぺたりとガラスにはりつく。どうしてこの先に行けないのかわからなかった。この壁のような境界はなんなのだろう。実験とはなんなのだろう。
わからないまま、ただ目の前の光景を茫然とみつめるしかない。
「リヴァイ〜まだ?」
「うるせぇな、クソメガネ。いちいちさっきから」
あのひとは机の前に座る。執務用にとあてがわれた机だ。両足をどっかりと机の上にのせて、やはり機嫌は悪そうだ。
「はいこれ書類。あと今回の作戦における犠牲者リスト」
クソメガネと呼ばれたひとはハンジさんだと思い出す。巨人研究に目がなくて、オレをしょっちゅう引っ掻き回してくれた。あれ? オレ今、ハンジさんのこと忘れていた? なんでだろう?
「なぜ俺がこんなことをせねばならん」
あのひとは相変わらず仏頂面だ。ハンジさんから渡された書類をちらりと目にして、ムスゥっとする。一応受け取っといてやる、そう言いたげな仕草で、手渡された書類の山をドサリと机上に投げ置いた。
「仕方ないねーエルヴィン団長の命令だし。気晴らしにどうだ? ってさ」
気晴らしだぁ? リヴァイはぶすくれた表情で苛々したように呟いた。
「デスクワークより、外で訓練してた方がはるかにマシだが」
「訓練しなくたってリヴァイは強いじゃん」
リヴァイは押し黙る。
「―人類最強兵長様だものねぇ?」
「やめろ」
あのひとは短く呟く。書類を手にとりながら、暗澹とした表情で告げた。
「俺を超人みたいに言うのは」
短い沈黙が落ちる。先に口火を切ったのはハンジさんのほうだった。
「―そうだったね、あんたも、人だった」
ハンジさんはため息をつく。
「あんたも巨人だったらよかったのに。そしたらさぁ、めいっぱい私が慰めてあげたんだけど」
「慰める?」
「そう、いろんな意味でね! たとえば」
「あー…分かった、いちいち内容は言わなくていい。想像できる。気持ち悪い」
「あっそ。そりゃ残念」
ハンジさんは肩をすくめる。ふざけた表情。だが、次の瞬間一変する。
メガネの奥に見せるのは、痛ましげな眼差し。あのひとの肩をぽんとひとつ軽く叩いた。
「―今までと一緒だ。時間が経てば、解決するさ、きっと」
「……」
「団長の好意を無下にすることない―鏡みてみればいい。今のあんたの顔、過去最高にサイテーだよ」
ぽんぽん肩をたたく。そしてハンジさんは部屋を出て行く。あのひとは見送らない。足を机の上に組んだまま、書類に目を落としている。
扉が閉まる音がしても、あのひとは身動きひとつしなかった。書類を握ったまま、固まっている。
時が止まっているようだった。オレはガラスの壁に両手をあてたまま、あのひとを見つめている。
これは何の実験なのだろう。キース教官がハンジさんから頼まれているのだろうか。その割には、身体的に何かされるわけでもないし、いつもの実験らしさはなにひとつない。
「教官」
オレは問う。わけがわからない。
「足りないものって、何ですか」
「それを見つけるのがお前の今の任務だ」
「任務?」
教官はすこし間を置いてから言い直す。
「いや……責務というべきか」
「せきむ?」
ますますわからない。オレはガラスの壁に鼻先をくっつけた。
あのひとは仕事をしている。これはいつもの風景だ。あのひとのデスクワークを部屋の隅で見ていたから。夜になるまでみつめている。
夜になればオレの部屋で一緒に寝て、抱かれた。
すきだよとか愛してるとかそんなあまったるいことを言われたことはない。それでも荒々しいセックスを何回も何回も交わした。お前は俺のものだと言われた。
嬉しかった。もっと言われたくて、もっともっととおねだりした。あのひとは喜ばない。でも冷静に受け入れるようで、情熱的にオレを抱く。夜だけ。夜だけ、
違うひとになる。兵長じゃなくて、人になる。夜は、オレしかみない。
それなのに。
どうしてここに壁があるのだろう。どうしてあのひとはあそこにいて、オレはここにいるのだろう。もう夜になる。だって眠くて眠くて仕方ない。だからきっともう夜になる。なのに、あのひとはオレの傍にいない。壁の向こうにいる。
あのひとがちいさくあくびをする。きっとデスクワークに飽きている。いつもならオレがコーヒーをいれる。あのひとは礼はいわない。言わない代わりにキスを
する。頭をぽんとひとつ叩いて、もうちょっと待ってろ、なんて言う。うん、待ってます、オレは頷いて、また部屋の片隅に座り込む。そんな毎日。
あのひとが立ち上がる。どこかにいく。部屋の扉がぱたんと閉まる。どこに行ったんだろう。オレは悶々とする。戻ってこない。落ち着かない。いつもそうだ。
世界がどう転ぼうと、人類最強といわれているあのひとが巨人に敗北するわけがない。不安がることなどなにひとつない。わかっているはずなのに、オレはいつも不安だったんだ。心臓を捧げよというフレーズが、いつもオレ達の上にふりかかって縛ってくる。
そういえば、王様に心臓を捧げるなんていまいちイメージがわかない。あったこともない、お姿をみたこともない王様だぞ? だからある夜言ったんだ。オレの心臓はオレの好きなひとに捧げたいんですって。
やめておけ。あのひとは静かに言った。俺はお前にくれてやる心臓をもう持ってないんだと。意味はわからなかったけれど、わかるような気もした。あのひとはみんなのものなんだと。オレがそうであるように、あのひともまた。
希望なんて背負うもんじゃない、胸に持つもんだ。あのひとはそういって、オレにまたひとつキスをくれた。そして言った。お前も背負わされるのが嫌になったら、俺が殺してやるからな、と。なにもかも手放して、とっととあの世で幸せになりゃあいい、と。
殺しの誓いをオレは受け入れた。あなたに殺されるなら本望ですよ。そう言ったら、あのひとは傷ついた顔をした。なぜかわからないけれど、ひどく傷ついてい
たように見えた。あのひとがそんな感情を漏らすなんて思わなかったから、オレはひどく動揺したんだ。ひどく、後悔したんだ。謝りたかった。けど、まだ謝れ
ていない。
あのひとが戻ってきた。コーヒーカップを手にしている。ああ、自分でコーヒーを入れたのか。オレは悟る。同時に、どうしてオレに頼んでくれないのだろうと恨めしく思う。
あのひとは書類を片手にカップをひとくちすすった。そしてぽつんとひとこと。
「不味い」
ほらね、言っただろう。オレに頼んでくれないからだ。あのひとはオレの入れたコーヒーを旨いとは言わない。それでもおかわりと言う。だからきっと不味くないんだろうと勝手に思っていた。感想を言うひとじゃない。
デスクワークは遅々として進まないようだった。さっきから一枚も決済していない。サインをするだけさ、あのひとは言ったことがある。中身なんかみてねぇな、どうせ俺は戦うことしか能がねぇ。オレと一緒ですね、そう言ったら、わかりきったことを言うなと怒られた。
「―なぁエレン」
あのひとがぽつりと呟く。
「なんですか兵長」
オレは返事する。なのにあのひとは反応しない。あのひとの声は聞こえているのに、あのひとにオレの声は聞こえていない。
「俺、そんな酷ぇ顔しているか?」
そう言って、あのひとがこっちをみる。なんだ、オレのこと、気づいてたんだ。一気に跳ね上がるオレの心臓。あのひとがこっちに近づいてくる。書類を手にし
たまま、ガラスの壁をとんと触れてくる。触れる指先。でも壁に阻まれる。ガラスに両手をついて、鼻先をくっつける。すがるように、あのひとの指先にオレの
指を、あのひとのくちびるに、オレのくちびるをあてる。
でも絶対に触れられない。
「兵長」
オレは呼ぶ。でもあのひとは反応しない。どうしてだ。どうしてだ。わけがわからなかった。こんなに近いのに、あのひとが遠い。
「兵長……どうして」
どうして、あなたは泣いているんですか。
漏れる嗚咽。あのひとは顔を隠す。でも隠れていない。だってオレの目の前で泣いている。オレがいると気づかないまま。らしくない。らしくないです。だって、あんた人類最強なんでしょう? 泣くはずなんかないんだ。
「ああ……そうか」
オレは茫然とつぶやく。なにかが変だとずっと思っていた。ようやく気づいてしまう。どうして兵長が傍にいないんだろうと思った。この冷たい部屋で、兵長ではなく教官といる。どうして兵長はいないのだろう。どうして壁の向こう側にいるのだろう。
「あなたがいないんじゃない……オレが、いないのか」
見知らぬ風景が広がっている。泣いているあのひと。その傍にいないオレ。お互いにお互いを探している。あなたがいない、と。あなたがいない風景に泣いている。
「気づいたか」
教官がオレを見る。
「気づきたくなかったって顔をしているな」
オレは首を振った。
「そんなこと、ないですよ」
教官は首をかしげた。
「ではなぜ泣く」
頬をあたたかいものが伝って、床にはたはたと落ちていく。ゆるむ視界の真ん中をオレはいっしんに見つめていた。すこしでも瞬きするのすらもったいなくて、目を見開いてこの景色を記憶に刻む。眠いんだ。でもまだ眠りたくない。だから願うように見つめている。
「どうした。なぜ泣いている」
教官の問いに、オレはゆっくりと答える。
「あのひとも、きっとオレと同じ風景をみているからです」
ガラス越しにキスをするあのひと。ようやく悟る。あのひとは、鏡越しにキスをしているのだと。鏡の向こう側に、あなたがそばにいないオレがみえているのだ。
「ここは、もうひとつの世界なんですね」
教官は頷かない。
「正確に言えば、ここは狭間だ」
「狭間?」
「そう。お前には選択権がある」
「選択?」
「巨人に食われた人間は、選択できるのだ。次に生きる場所を」
そう言って、教官は教室の後方を指差す。そこには二つの扉がそびえている。
「右の扉は平行世界、左の扉は垂直世界への入口だ」
「……どういう意味ですか」
「世界は時系と空間がクロスして初めて成り立つ。お前はその狭間に落ちただけ」
「……」
「右を選べば、お前は巨人のいないどこか別の空間へ落ちるだろう。そして全く違う人生を歩む。巨人のいない、幸せな世界だ」
「……左を選べば?」
「左を選べば」
教官はすこしだけ言い淀む。
「……お前はまたあの世界のどこかの時系に落ちる。同じ人生を歩むかもしれないし、違う人生を選び取れるかもしれない。巨人の巣食う、あの世界で」
選ぶのは自由だ、と教官は言った。そして。ただしだ、と付け足す。
「選択には犠牲がともなう」
「犠牲?」
「右を選べば、お前は愛するひとには二度と会えない。愛し愛されていた記憶は残るが、愛するひとは失う」
オレは口を噤む。訊くよりも早く、教官は言葉を付け足した。
「左を選べば、お前は記憶を失う。愛するひとには再会できるが、愛し愛されていた記憶は失う」
「……」
「どちらがいいか、選びとるがいい」
オレはふたつの扉を見比べる。そして、鏡越しに泣いているあのひとをみる。
「……オレは」
「……」
「左に行きます」
「左」
教官の表情がぴくりと動いた。
「いいのか? 巨人の巣食う世界だぞ。また貴様は食われるかもしれない」
「それはあんまり問題じゃないんです」
オレはすこしだけ声が小さくなる自分を自覚する。すこしだけ、自信がなくて。
「あのひとのこと、忘れるなんて、哀しいけど。目覚めたらちょっと泣くかもしれないけれど」
「……」
「でも、あのひとも今、ものすごく泣いているから」
オレは笑う。泣きそうになりながら、それをこらえて笑う。
「だから泣いているあのひとに、会いに行きます」
たとえ記憶を失っても。何もかもリセットされとしても。
(きっとだいじょうぶ)
オレはオレに言い聞かせる。
(きっとまた、あなたに会って)
きっとまた、何度でもあなたと恋をする。
左の扉が音を立てて開き始める。オレは声を押し殺して震えているあのひとの前にたつ。
たとえ記憶を失ったとしても、あなたに会えるならそれでいい。
「そんなに泣かれたら、ほっとけないです」
泣くあなたなんて似合わなさすぎる。気持ち悪いとか削ぐぞとか言われるほうが何倍もマシだった。
指先を伸ばす。すがるように壁に身体を寄せる。あのひとの唇があるあたりに、そっと唇を重ねる。
「オレは、あなたのものです」
だから、あなたのいない風景なんて耐えられない。たとえあの残酷な世界に戻ることになったとしても、迷いなんかない。
開いた左の扉に足を踏み入れる。背後から教官の声が飛んでくる。
「お前の名前はなんだ!」
オレは振り返る。心臓のある場所は左。拳をつくり、胸をはる。音が鳴るほどに心臓に拳を突き立てて敬礼する。
「エレン・イェーガー! ―巨人をすべて駆逐する者です!!」
教官の満足そうな顔を見つめ返す。これは通過儀礼なのだ。己が何者なのか、己が何をするべきなのかを、己の心臓に穿つための。
エレンは目を細めてちいさく笑う。視界の端にうつる、あのひとの姿。それを強く強く脳裏に焼き付ける。忘れる瞬間がくるまで、どうしてもあのひとでいっぱいになりたくて。
肩を落としてうつむくあのひとを、鏡越しに遠くに見つめて焼き付ける。いま会いにいく。だから今しばらくだけさよならを言う。たとえまたここに戻ってこようとも、何度だって来て、何度だって戻って、何度も何度もあなたに会いにいく。
だからさよならするのだ。この、あなたのいない風景に。
振り切るようにオレは扉の中に飛び込んだ。あの地獄のような世界へ落下する。構わなかった。信じていた。あなたはオレに幸せになれと言ったけれど、あなたなしでは無理なんだってわかるから。
だから、生きて、生きて、生きて、きっと何度だってあなたに恋をする。
落下速度に加速するようにかきけされていく記憶の海の奥底に、ただひとつの言葉をのせて、オレは目を閉じた。
目がさめたら、オレはまたきっと泣いているに違いない。愛したひとも愛されたこともなにもかも忘れているんだろう。
でも、ちっとも怖くはなかった。あのひとへの愛しさを唇にのせて、オレは誓うように言葉を紡いだ。
「さよなら―未来で待ってて」
(おわり)
2013年7月14日イベント「最強彼氏」で配布した小説です。
どこかへ行くエレンはけっして悲観しないで、痛々しいほどに希望だけを見据えて選択しそうだなって思います。